アイドル並みのイケメン!?土方歳三にも縁の経済の父、渋沢栄一氏の秘蔵っ子
うわ~~!もう師走ですよ。どうしましょう!(こないだからそればこないだからそればっかり!)
なのに、色々とアレなんでアレしてます!私!すいません 意味不明で!
ところでみなさん、相変わらず唐突ですが!このウルトライケメンについて何かご存じですか???
結構有名だから、多分知っている人のほうが多いですね。でも書かせて!

(日経新聞からお借りしました。)
イケメンですね~~!とても今から150年ほど前の幕末の人とは思えないイケメンぶりです!
まるでTOKIOかエグザイルのメンバーの一人と言われても遜色ないほどのイケメンです。
この人のイケメンぶりは結構有名なので、既にこの写真の主が誰なのかご存知の人もいるかも知れませんね。
この若きお侍さんの名は、渋沢平九郎。 渋沢栄一氏の養子だった人物です。
あれ・・・?なんか聞き覚えのある名前ですね。
そう!この青年は先日このブログでもご紹介した、幕末の偉人渋沢栄一氏の見立て養子だった人なのです。
この記事です。
日本の資本主義の父と言われる渋沢栄一と新選組の土方歳三の縁
なぜ渋沢氏はこれだけの功績があるのに人気が無いのか!?
渋沢栄一氏は埼玉のみならず日本を代表する偉人中の偉人とも言える人物。
幕臣としても活躍し、徳川慶喜公の弟君である当時14歳の徳川昭武公の付き添い兼会計係として、1867年にフランスはパリで行われた万国博覧会にも参加しています。
し・か・し。そのフランスで万博が行われた1967年は慶応三年。明治元年の一年前であり、まさしく幕末の動乱の時期の真っ最中です。それでもやはり徳川幕府は幕府の威信と国際交流のために、徳川昭武公をフランスまで送り出したのですから、剛気といえばそうかもしれません。
でも、日の本が内戦の真っ最中で、徳川幕府存亡の危機かもしれないのに弟を、今よりずっと遠い海外の地に出しちゃう徳川慶喜公て、やっぱりお殿様ていう雰囲気満々ですが。
現代の私達だって、飛行機に乗ってフランスくんだりまで行くのは大変だっつーのに、この当時は船ですよ!船!
航路で片道50日だって言うじゃありませんか!大変すぎ!船酔いどころの話じゃない!
そんなわけで、その道中は正直何が起こるかわかったものじゃあ無い旅路です。ですので渋沢栄一氏のように堅実な人物はその辺りを周知していたようで、もし自分の身に何かが合った際に家督を無事に存続させるための見立て養子を残して、遥か彼方のフランスへと旅立ちました。
そしてその見立て養子が、写真のスーパーイケメンの渋沢平九郎なのです。
こんなイケメン養子、私もほしいよ!え?
でも実はこの渋沢平九郎、渋沢栄一の正妻の弟さんのようで全くの赤の他人ではなかったようですね。
私はてっきり、そのその当時村に居た評判のイケメンを養子にしたと思ってたんですが。
その渋沢平九郎のお姉さんもかなり美しい方のようです。
ココに晩年の渋沢栄一氏とご家族の写真がありますが、一番右端にいる品の良いご婦人が渋沢千代さん。
(もしかすると、渋沢氏の後妻の兼子かもしれません。情報求む。)
渋沢栄一氏の妻であり、平九郎の姉上様にございます。英傑の妻にふさわしく、非常に品のある方ですね。

(Wikipediaよりお借りしました。)
いやぁ、やはり日本の英傑の家族写真にふさわしい重みのある一枚です。
でも、こちらの記事によると渋沢栄一氏と渋沢平九郎は従兄弟とか?
え?ということは??? 渋沢栄一の奥さんの千代さんも従兄弟?なにそれ?????
昔は一族の財産を守るために、よくそういうことこが合ったと聞かされましたが。マジ!??
まあ、それは昔の事情なのでちょっと置いといて・・・・
それにしてもこんな家族がいて、イケメンなお侍である渋沢平九郎さん。きっと嘱望された未来が待っていたに違いありません。でも、神様は結構な気まぐれです。
この美しい青年は一連の戊辰戦争で起きた、飯能の戦いで命を散らしてしまったのです。享年22歳。何と若く短い一生だったことでしょうか。夭折というのは彼のためにある言葉とも思えるほどですね。
長いので追記にどうぞ!
平九郎は幕末の動乱期には江戸に居たようですが、戊辰戦争の勃発と同時に振武軍を結成して新政府軍に抵抗しました。しかし元々が武士の身分出なかったためか、わずか半日で振武軍は壊滅させられてしまったのです。
平九郎はどうにか故郷の埼玉に落ち延びます。そして飯能の山辺の茶屋に立ち寄りこれからの事を思案していると、その茶屋を切り盛りする老婆にとある助言を受けます。
お侍さんの格好でこの辺りをうろつき回ると新政府軍に見咎められて危ない、今このへんには官軍がうようよいる。それならココに刀を預けて格好を変えて行きなさい。
そう地元の老婆に言われたため、よっぽど彼は素直だったのでしょうか。平九郎は一理あると太刀を老婆に預けてしまったそうです。そして農民の格好に姿を変え、小太刀を懐に忍ばせて飯能の山辺へと平九郎は進んだそうです。
しかしやはり敵に遭遇してしまい、その顔立ちと動揺ぶりから簡単に旧幕軍と見破られてしまいます。平九郎はすかさず懐に忍ばせた小太刀をふるい、相手方の一人の腕を切り落とすほどの深手を負わせました。
しかし結局は多勢に無勢でかなうまいと結局は自刃してしまい、劇的な幕を自ら引くことを選んだのです。
うーむ。何と惜しいことか。こんなに将来を嘱望されたであろう美青年が、こんなにも簡単に命を落としてしまうこの時代。本当に理不尽すぎやしませんか!?
つか、茶屋のおばあちゃんは私はなんとなく臭うと思うんです。いくらなんでも太刀を置いてけって、なにか理由でも合ったのでしょうか??もしかすると新政府軍の側だったとか?
平九郎は命を落とした後に官軍に首を取られ、さらし首になった後に胴体は地元の人に発見されて曹洞宗のお寺に祀られたとか。なんでも地元の人はこの平九郎の亡骸を脱走の勇敢な志士様としてあがめ、首から上の病気に効能がある神様と崇め奉ったそうです。
この辺りの感覚は、本当にわかりませんね。なんでそうなるの?病の神様?て思っちゃいますが。現代人の私達にはこの手の事は心底理解し難いものかもしれません。
今でも渋沢平九郎の祀られている曹洞宗のお寺は飯能の山辺に現存し、このお寺には平九郎の血を吸って真っ赤に染まった ”平九郎グミ”とよばれるグミの木もあるそうです。
それにしても、変革には痛みがつきものというものの、江戸時代から明治維新へと日本が変わっていく時代には、その痛みの代償としてどれだけの命が失われたことなのでしょうか。
人権という言葉は江戸時代には皆無だったかもしれませんが余りにも簡単に若い命が散らされていくのには、散り行く桜を見ているようです。
平九郎だって、もし今の時代に生まれていたらアイドル並みのイケメンだ、エグザイルだと、散々持て囃されていたに違いありません。それなのにこんなにもあっさりと、明治維新というあたらしい時代のために美しい青年の命は失われてしまいました。青春の残酷さといえばそれまでかも知れませんが、神様のいじわる!
きっと神様は、この凛々しくも美しい青年が醜く老いることをよしとせず、永遠に美しい姿を後世に残してあげたい。そんな気まぐれにも似た神様の気分が、彼の短い命を摘むことを決めたのかもしれません。
そう思わなければ、やってられなくらいイケメンな渋沢平九郎。まさにこの時代の一番のイケメン。
いえ、歳三さんに続く2番目のイケメンかもしれません!(我ながら痛いぞ。)
て、相変わらずまとまらない文章でスイマセン!
ていうか、渋沢平九郎氏については既にご存じの方も多いかもしれないので、あんまり新鮮に感じなかった人もいるかもしれませんが!でもやっぱいいよ!平九郎!
しつこくもう一枚!

あーカッコイイよぉ 平九郎!そう思った方も、そうでない方もボタン押しといてください!応援夜露死苦!

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